2019/12/20
答え:LTLはマイクロブログへの社会性の注入である。
(この記事は、分散SNSアドベントカレンダー2019の20日目のために書かれた記事です)
よく言われることであるが、TwitterはSNSではなくマイクロブログである。Twitterは気兼ねなく個人的なつぶやきをする場所であり、その人のつぶやきを気になる人がフォローしたりリストに追加したりする。「タイムラインは自分で作るもの」であり、気に入らなければフォローを外せば良いし、リプライを拒否したいのであればブロックすれば良い。どういうタイムラインにするかは個人の自由であり、自己責任である。
では、マストドンはどうか?
基本的にはマストドンはTwitter「のようなもの」を分散化しOSSで実装したものである。つまりこの「厳密に言えばSNSではなく、マイクロブログである」という性質も受け継いでいるはずだ。
ただし、例外がある。その例外の最たるものがローカルタイムライン(LTL)だ。
本来的には、ローカルタイムラインはフォローしていない人のつぶやきをのぞき見し、面白そうな人を発見するためのタイムラインだ。分散環境であるがゆえ、マストドンでは検索という仕組みとの相性が悪く、ユーザを見つけ出すのが難しい。この弱点を補強するのがLTLである。
ところが、僕らマストドンユーザは偶然、LTLがチャットとしても利用できるということを発見した。僕らがまず最初にどこかのマストドンインスタンスにアカウントを作ると、まだ誰もフォローしていない状態にも関わらず、LTLにはたくさんの人のつぶやきが表示されるだろう。このタイムラインは原則的には同一インスタンス上の誰でも同じものが見えている。みんなに同じものが見えているのだから、ここに書き込むだけで会話が成立する(ように見える)。これがLTLチャットだ。
副産物であるがゆえ、LTLでのチャットにはそれほどの利便性はない。そのことによるトラブルも多少はあるが、概ね良好に機能しているようである。現在のところ、マストドンのLTLは新規ユーザがインスタンスを選定する上での最も重要な要素になっていると思われる。(そういう意味でのLTLの存在意義については、ほとんどの人が異論は無いと思うので、今回はその点については割愛する)
LTLでチャットができることにより、マストドンでは「タイムラインは自分で作るもの」「気に入らなければミュート/ブロックしろ」という、Twitter特有の「読み手に自己責任論を強いることにより発言の自由を確保する」手法は通用しなくなる。ホームタイムライン(HTL)は「自分で作るもの」であるためTwitterと同じ自己責任の理論が通用する。だが「LTLはみんなで作るもの」である。LTLでは、ミュートやブロックはあまり助けにはならず、お互いの折り合いをつけながら利用することになる。そしてそうであるからこそ、LTLを積極的に活用しているインスタンス(以後、LTLインスタンス)はマイクロブログサービスである以上に、SNSなのである。
マストドンインスタンスがSNSであるかどうかについては議論の余地があるが、LTLインスタンスはSNSである。
「マストドンはやさしい空間ですね」。LTLインスタンスの運営をしていて、新規のユーザの方からこのように言われることがよくある。
Twitterでは、タイムラインは自分で作る物なのでタイムラインがどのような雰囲気なのかは人によって異なる。なのでTwitterでギスギスしたタイムラインを作っている人であれば「マストドンはやさしい空間」という感想をもつかもしれない。
けれども、ここには大きな罠がある。
LTLは自分が作ったタイムラインではなく、みんなで作ったタイムラインである。仮にそれが「やさしい空間」に感じたとしても、それがたまたま自分の自己責任で作ったTwitterのタイムラインよりも「相対的に」やさしい空間なだけかもしれない。あるいは、インスタンス内のユーザ一人一人の意識が高く「自分自身に厳しくあることで相手にはやさしくあろうと努力している」結果かもしれない。LTLにはあなたがフォローしたわけでもない人がたくさんいて、あなたとのコミュニケーションを行う。たまたまやさしいと感じることもあるかもしれないが、不快に感じることもあるだろう。また、やさしい空間であるためには、あなたも他の人に対してやさしくあろうと努力する必要がある。Twitterやホームタイムライン(HTL)で上手く自分好みのタイムラインを作れている人にとっては、LTLは自分一人ではコントロールできず、気を使わなければならない「とても不便で不快な空間」だと感じるかもしれない。
LTLはデフォルトではやさしい空間ではないが、やり方によってはやさしい空間になる可能性がある。
先ほど、LTLにはフォローしたわけでもない人がたくさんいて自分一人ではコントロールできない「不便な空間」である、と言った。でも、それは決して否定的な意味ではない。むしろこの「不便さ」がLTLの本質なのではないかと思う。その不便さは社会の不便さと通じる。LTLは「社会は自分の思い通りにはならない」というあたりまえのことをソーシャルネットワークサービスとしてあたりまえに実装している、と言える。
では、その「社会の持つリアリティ」を、LTLという刺客によってネット上にわざわざ再現する必要が一体どこにあるというのだろうか? リアルに疲れた僕らは、ネット上では積極的なゾーニングによって自分好みのタイムラインが形成できれば、それでいいのではないか?
この点についてはインスタンスごとのポリシーに関わることなので、あくまでも一インスタンスの運営としての、僕自身が個人的にどう考えているのかを述べたい。まずは、もう一度LTLの独自点を検証する。
Twitterのアーキテクチャは「タイムラインは自分で作れ」という自己責任論を持ち込むことにより自発的なゾーニングを促し、SNSの弱点である「違う意見の対立や炎上」を回避できるような実装を示した。それは当時画期的だったと思うし、実際に途中まではとても有効だった。しかしこの「コミュニケーションの改善よりもコミュニケーションの回避を選ぶ」という戦略は人類史的には前進ではなく戦略的撤退であり、結果的にユーザの意識の低下を招いた。実際、自由な発言空間は、自己規制のないむき出しの自我の垂れ流しと化したし、それに対する他人へのマナーの押しつけや不必要な介入も横行した。そうやってTwitterの自己責任タイムラインは立ちゆかなくなった。見るに見かねて公式も規制に乗りだしたが、規制は反発され逆効果となった。このように自己責任自己管理の空間ではエゴによるエントロピー拡大が急速に進むことが明らかになった。
この結果から見るに、僕は「Twitter上で自分のタイムラインを健康に保てるのはごく一部の人間だけである」と考えた。ほとんどの人は、なぜか自分の好みでないタイムラインを形成してしまったり、自分の好みで形成したはずのタイムライン上で他のユーザとの問題を抱えてしまう。その理由の一つはフォローで作るタイムラインが基本的に「片思いである」点にあり、一人一人が別のタイムラインを見ている(=違う歴史を生きている)ことを人がなかなか理解できないし、納得できないことが原因だと思われる。もう一つは「自己責任の難しさ」である。「自己責任でどうぞ」と言われて、自制しながらそのツールを使えるほどには僕らは成熟してはいないのだ。
では、マストドンではどうか。
LTLを使用しない場合には、フォローによって自己責任でHTLを形成していく。これは基本的にはTwitterと同じだと考えていいだろう。セルフコントロールに優れた人であれば好みのタイムラインを作り上げ快適な利用が可能であるが、そうでない人はその人が「個人的に」トラブルを抱えることになる。そのトラブルを抱えるのも自己責任の範疇である。現状では幸いマストドンにたどり着くにはある程度のリテラシーが必要であるため、マストドン空間全体としてはある程度のクリーンさが保たれているのではないかと思う。
一方LTLはTwitterとは異なる。原則的には「両思い」のタイムラインであり、みんなが同じ物を見ている。これはLTLならではの安心感につながるが、一方でトラブルの元にもなる。ブロックされてもそれと気づいてしまうので「ハブられた感」は強くなる。各個人と言うよりはインスタンス全体でタイムラインを形成する責任を負うので、何かあれば全員でトラブルを抱えることになる、よくも悪くも共存力が試される。
では、ここでもう一度問う。その共存力を試されるタイムラインは必要なのか?
僕の答えは明確だ。「みんなで作る(=社会性)タイムライン」が僕らを成長させる。自己管理能力は突然生まれるものではなく、経験によって獲得される。その場所がLTLだ。だから必要なのである。
たしかに「自分で作るタイムライン」だけである方がトラブルは少ないだろう。しかしそれは自己管理できない人を拒絶する冷たい空間であるし、自分と違う考えの人を非可視化する閉じた空間である。また「あなたは自己管理できる人間ですか」と聞かれて「はい」と答えられる人はほとんどいない。自分では判断できないからだ。そしてほとんどの人が自己管理をできたりできなかったりする。それは経験を通じて獲得するものだ。ではそれはどこで経験し獲得するのか。社会の中でだ。
リアル空間とネット空間を分ける時代はすでに終わっていて、ネット空間で人は学習し成長する。もしネット空間が「すでに社会性を獲得している人同士の閉じた関係性にとどまる空間」であったとしたら、ネットで育った人たちが突然社会性を獲得できるはずはない。ネット上にも社会が必要であり、そこで人は成長する。社会のサブセットであるネットコミュニティには、必ずしも相性が良くない人も含め雑多な人々が集まっている。そこではエゴ同士がぶつかって怪我をすることもあるが、同時にあらかじめ緩衝材も用意されている。突然100%自己責任の海に放り出されても上手く立ち回れる人はごく少数であるが、ネットコミュニティであれば、それを経験し学習し乗り越える時間や機会が与えられる。LTLを活用することで、TwitterがSNSから切り離した「社会性」をもう一度取り戻し、各人が自己管理能力(ほどよい折り合いを見つけるためのスキル)を磨くことが可能なのではないか。もちろんそれはLTLの目的ではなく効用である。そしてその効用は求める必要はない。結果的に出てくるものだ。
社会はトラブる。しかしそれはバグではなく仕様である。LTLもまたそうである。
LTLはみんなで作るものである。LTLは社会である。他人を思いやった発言を心がける必要があるし、個人攻撃や排他的な極論は避けなければならない。そうでないと簡単に壊れてしまう危うい空間である。皆が快適なLTLを作り出そうと努力することでギリギリ成立しているものである。
しかしLTLはコミュニティである一方で、あくまでも個人的なつぶやきの洪水でしかない。ここでコミュニケーションが成立しているように見えるのは(少なくともアーキテクチャ的には)単なる偶然であり、そこで何か自分が気に入らないつぶやきがあったとしても、それは自分に宛てたものである可能性は低く、たとえそれが不快であったとしてもそれに反論する義務はないし反論しなかったらそのつぶやき内容を認めたことになるわけでもない。
この、「コミュニティとしての強固な繋がり」と「ただの個人的なつぶやきの洪水」のあいだにある「弱いつながり」こそがLTLの本質である。LTLは同じタイムラインを共有しているにも関わらず、いつ誰が来て自分の書き込みを読んだのか読んでいないのか、最後に書き込んだのがいつなのか、そういったステータスがわからないか、わかったとしても調べるのは面倒くさい。リアルタイムで鉢合わせた人同士のピンポイントのコミュニケーションで成り立っているので、情報の共有度合いも低い。が、このゆるさがLTLの助けとなる。つながりすぎないこと、一体にはならないこと、それもまた共存する上で重要なことである。普段「社会への適応が難しい」と考えている人にとっては、LTLインスタンスはプチ社会へ参加することでのプラクティスまたはリハビリとなるし、「人と関わりすぎてきた人、コミュニティに密度を求めすぎてきた人」にとっては、距離を詰めすぎない関係性のための良い教習所となりうる。
LTLはトラブるものである。そのトラブルを通して、各人がネット上のコミュニケーションの程よい方法論を学習していくのだ。Twitterによる「自分で作るタイムライン」で人類は一旦退行した。周りを気にせずに発言できる夢の空間は、独りよがりな暴論とそれを攻撃するポリコレ警察の荒廃した世界と化してしまった。この荒廃したネットの中で、僕らはもう一度社会を構築しなければならない。LTLチャットはもう一度やさしい空間を取り戻す試みである。やさしさと厳しさは表裏一体である。一人ひとりが自分に対して厳しくなることで、全体としてはすこしだけやさしい空間が成立するのだ。